
村長になった経緯と生い立ちについて。
やっほー、村長です。
休日、日曜日の昼過ぎでも結構学生勉強してるんだなあ。。。。
fromスタバ
たまりまくった作業がやばい。
だってシンプルに考えて、会社たち上げようとしてて
今月には結構でかめのイベント(どっちも主催や!)が迫ってる。
半年ほど前に『村づくり』として構想を始めたえたじま音楽村は
事務局長の‘’おかちょん’’とであってから一気に形になった気がする。
今回は私が村長になった経緯を話そうと思う。
ちょっと長くなりますがこれは結構武林の本質の話というか、
普段考えてることなのでぜひ最後まで読んでみてください。
3年前から変わっていない、軸。
人々に感動を届け、自らも感動体験に生きる
常に目的がこれであって、手段は様々。
移動演奏活動JAMを始めたのもちょうど3年前で、世の中はコロナ渦だった。
自宅待機が続いて、ロックダウンの日々。
実家にいた私でさえ、病みそうになったのに、
初めての土地で一人暮らしや、生活を始めた人は
どんな気持ちだったのだろうか。
毎日ニュースで流れてくるコロナ死亡者数。
それと同じくらい目にした自殺者数。
2020年、11年ぶりの増加だったらしい。
実は一度だけ、大阪駅で現場を目撃したことがある。
高層ビルを見上げる人の数と
下で待機する、救急、消防、警察の数。
私にはそのサラリーマンの目が
覚悟を決めた時の人間の目にみえた。
だから心が痛かった。苦しかった。
こんな注目のされ方で死ぬんだ。人生最期にするんだ。
生きてほしい。
中学の頃、突然同級生が2人バイク事故で死んだ。
めちゃくちゃヤンチャで学校にもバイクで授業中に乗り込んでくるような子だった。
お葬式の顔は、パンパンに腫れて
変わり果てた最期の顔だった。
人の死に際に、
意見をするほどおせっかいなことはないと思う。
ただ、本当にこれは本心で
そんな死に方でいいのかよ。
そう思ってしまう経験が何度もある。
少しでも、人生を変えるきっかけがあれば、変わったのか。
誰かがそのきっかけを作ってたら、運命は変わったんじゃないか。
もしも私の大好きな人や家族が当事者になった時一生後悔が残る。
人の死は突然に訪れる。絶対にないなんてない。
もしも、私が知らないうちに、死を選んでいたら
私の人生に後悔が残るから嫌だ。
そんな根本的な私の中のナニかがあり続ける中で、
ある日、ふと大昔の人間の暮らしを思い出した。
ちょっとだけ、今の田舎暮らしに近いような。
父として家族をまもり、母として家庭をつくる。
そこには家族の愛があって、淡々と毎日を過ごす。
ちょっとした成長に喜びを感じて、日常にアソビを見つける。
『樂』の語源は、古代の人間が、木の枝先に糸で音のなるものをつけて
カラカラ♬と遊んでいた様子の象形文字らしい。
樂しいの語源は、音。
そんな背景があり、この現代に
人が生き返る村を創りたい。
そう思った。
だから、えたじま音楽村として、1人人生を変えられるような
体験価値を届けられなければ存在価値はない。
本気でそう思っています。
哲学的な話になりますが、生きることも死ぬことも変わりはない。
事実として存在するだけで、それと感情は別ものだ。
これは、究極の自己実現であり、
村づくりである。