音楽村を終えてPART②【告知あり】

ウチらの時代始まりのサイト

2024/04/05 12:14

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FROM東京行きの新幹線

(前々から仲良しで好きなイベント会社の投資家さんに会いに)

前回の記事はどちらかというと、終わった直後の感情的な文章だった。

外に向けた挨拶的な役割でも伝えたかったし、正直ちゃんと振り返りながら

書いた記事というよりも、当日からのテンションでしかない。

しかも、この立ち上げの4か月は実際記憶がなくなってるところも

あるくらいいろいろ我武者羅だった。もちろんこれからがもっと

忙しくなるのはそうなんだけど、一回ここで振り返っておこうと思う。

 

 

--2023年9月--

 

学生時代に立ち上げたJAMはこのころから少しずつ仕事が増え始めていて、

今年の動員数は25万人だった広島の祭りのある会場のフルセット(音響キャスティング企画)

をすべて任されていた。

実はこの時、2日前にインフルにかかりまったく万全ではなかったが、

メインMCを一人で回し、何とか乗り越えていた。その場所に一番最初に挨拶に来てくれたのが

現事務局長のおかちょん。

この人、いろいろありそうだなあ。。掘ったらめちゃくちゃ面白いだろうな(笑)

が第一印象でそれは当たってたんじゃないかなーw

その時は音楽村を一緒にやろうなんて話はなく、普通にその月にしばと3人で

飲みに行った。

これも奇跡的な話で、JAMとおかちょんは、

真道山キャンプ場を借りようとしてた時期がかぶってたらしい。

 

何かの縁だろうなあ、と。で、その時に出たのが「音楽村」だった

 

「普通のよくある音楽イベントはやりたくない」岡

「表現者が集まる村作りがしたい」武

 

イベントの名前何にしよっか~、から、いろいろ模索して

最初は確か、英語とか、○○フェスみたいなのがあったんだけど、

やっぱシンプルに「音楽村」じゃね?ってなって決まった。

 

 

あった時から「敬語禁止ね!」と言われ続け(笑)

最初は難しかったけど、絶対におかちょんはため口で

おもろいこと話すのが一番楽しいし、おかちょんの独特の人のディスり方が

ひろゆきみたいで一番信頼できた。

 

 

--10月--

 

この時期は結構きつかった。jamで使ってたトラックが大阪遠征の途中で事故に遭い

修理費が約160万。活動を続けるのか、別の手段を考えるのか、めちゃくちゃ模索した。

その時にできたのが、SNSの法人営業。

とにかく法人を回ったが、相手にされず、撃沈。

この手段を切るのは早かった。

 

やっぱり、リアルのイベントがやりたい。絶対に人が集う場所を創ることが好きだ、

手段はトラックじゃなくてもいい。

えたじま音楽村にJAMとしての全ベクトルが向いた。

(名刺を新しく作り替えた)

 

 

また、このころにずっとブカツをつくりたくて仲間を集めていた

エンタメノブカツの事業構想がみえてきて結構テンションが上がってた。

brainのメインは私ではないが、自分自身の哲学やマインドが形になっていく瞬間が

たまらなく好きで、できないことはできる人に任せればいい。

常にいいパスを出して、いい試合をする、結果をだす。

関わっている仲間がいる、集まるということはGOのサインだ。

波に乗れるときには乗っておいたほうがいい。

 

--12月--

 

プレイベントならぬ、とりあえず開催現地で一泊しよう!を開催した。

 

とにかくみんなで夜中中語った。

キャンプ場の支配人もいたし、今回大口協賛をしてくださった

地元のお医者さんもいた。

現地の音響を確認して、みんなで江田島のカキを食べてキャンプファイヤーして

過ごした。不思議と、音楽村の【空気感】がそこにあった。

肚の底を話せる、どんな人間かわかる、それを受け入れる。

楽しいだけの感情じゃなくて、今に全力。

このプレイベントの空気感が、3月30日にも感じられたのはすごいことだと思う

 

 

 

 

 

--1月--

音楽村の軸になるワード、哲学が固まり始めとにかく3人でのミーティングを重ねた。

何のために音楽村が存在するのか、だれのためのものなのか、

資金調達の目途は立つのか、集客はどうするのか、

市内のガストとか、フードコートに集まってかなり真面目な話をしていた。

それぞれに本職の仕事時間を削りながら。

家族との時間も減らしながら、音楽村を創っていった。

 

時々、おかちょんの体力にドン引きした。

いつ寝てるのか全く分からなかったし、本気で頭おかしいな、この人と思ったww

けど、今回の開催までに一番動いたのは紛れもなくおかちょんだった。

誰に褒められるとか、めっちゃ稼げるとか、

そういうんじゃなく。

 

家族との時間、クリエイティブな時間を犠牲にしてまで

音楽村をつくった。本気の大人はかっこいい。

お互いに刺激を受けている点で、運営の中にすでに音楽村が存在している。

--2月--

音楽村を通して、関係者人口がどんどん増えていった。

えたじま市長の明岳氏(あっきー)に表敬訪問にいった。えたじま在住でも

所縁があるわけでもない、本当に部外者である私の話を熱心に、

まっすぐ受け止めてくださったのがうれしかった。

 

 

後に、江田島でばったり市長にお会いした時、新聞社の支局長や、

教育委員会長にも音楽村を紹介してくださり、当日も来村いただいた。

 

江田島がこんなにも挑戦に前向きで温かい島なのは、

この人が市長だからだと思った。

 

 

 

同時期に今回の音楽村のロゴは、現役大学生である土井心に一任した。

広島市内のアトリエで彼女が開催した個展に行ったとき、

その世界観と、彼女のもつエネルギーに惹かれた。

 

 

 

上がってきたロゴデザインもとても丁寧で、強いメッセージ性のある

音楽村を象徴するデザインだった。

 

 

 

 

プロモーションビデオの制作もしばが限られている時間の中で

最高のパフォーマンスを発揮し、Instagramの広告動画の再生数は2.6万再生を

達成した。(2024年3月)

この初速で、音楽村は確実に今までにない空間ができる、と確信した。

毎回、作品や情報をローンチするときは

ワクワクと同時に不安にもなり、その瞬間が楽しくもある。

自分自身がその作品を創っていなかったとしても

自分の子供を見送るような、、そんな気もちがする。

 

 

--3月--

開村月に突入してもやらないといけないこと、

考えてなかったこと、ありすぎてありすぎた。(笑)

幸いにも、ご縁があり、3月、広島テレビで特集が組まれた。

その反響もあり、複数のメディアが音楽村に興味を持ってくれていることを

知った。

 

 

 

おかちょん程忙しくはなかったものの、今回の音楽村開村は一回きりの

ことではなく、4月からは拠点ができて、ほんとに村づくりをしていくし、

音楽村に人が集まる確信はあるけど、長期の戦略も描けていなかった。

 

3月時点で、2回目開催の詳細は全く考えていなかったし、

予定でしかなかったけど、とにかく、開村に必死だった。

イベントが終わってすぐ、2回目開催について即答できなかったのは

本当に一回体力を使い果たしたからだと思う。

 

だけど、去年の9月に初めて真道山を訪れた時に

ここで絶対にイベントを開催する、と即、直感が降りて来たのは

間違いじゃなかったんだと思う。

私がやりたいことは、

音楽だけを、突き詰めることではなく、自分自身がもつ

小さな、感情や、どうにもこうにも昇華しきれないエネルギーを

表現に変えて、なにかのきっかけを作ること。

 

過去に、表現に救われたからこそ、表現が誰かを救う手伝いがしたい。

 

 

 

2回目開催に向けて、今回の開村で大いに手伝ってくれた

学生含めて、7人が音楽村役場のメンバーになってくれることが決まった。

給料が払えるわけじゃない。

だけど、今回の立ち上げに同じくらいワクワクしてくれて、

また違った方向から音楽村を創ろうとしてくれている。

 

 

お手伝いはいらない。

音楽村から一方的に恩恵を受けようとしているわけでもない。

ただ、純粋に楽しんでくれる。

本気で同じ哲学とビジョンを音楽村で追いかけられる。

そんな仲間を本気で勝たせたい。

ここから、どんなストーリーが生まれるのか。

新しい出会いが生まれるのか。

 

音楽村は、そんな表現者が集う場所。

 

 

トリゴヤ:江田島市能美町高田 3460-3

 

 

 

 

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